5月27日 夕刊記事に思う 2007/5/27(日) 午前 2:50

 事故当日の16時ごろの某民放のニュース。

 運転手の実名報道で予断を持った中身だった。

 彼を知る人が「そんな・・・」と驚いた

 翌日の高知新聞の朝刊も同じ

 その記事を読んで 私は「不運な事故と感じた」
 その後 本人から事情を聞いてからはそう思わなくなったが
 記事を読んだときはそう感じていた。
 

 18年3月15日の同紙の夕刊

 今、読み直して「ふ〜〜む。ひょっとして・・」
 と期待がもてた。

 最後の一行

     「県警に投げ掛けた教訓は重い。」

 どう言う意味かな? 最初に読んだ時は目にも留まらなかったが。

 

 今日、知人から「先日の新聞では不利のようだな(裁判が)」
 と言われた。

 彼は私がこのブログを書いていいることを知らない。

 私 「何故?」

 知人は、記事の中の検察の論告部分

 「男性は直進してくる白バイを確認せず、優先通行権を妨害した過失は重大。自己の落ち度を反省する姿勢もない」

 と言う部分を裁判官、あるいはマスコミの意見と勘違いしているようだった。

 とりあえず「それは検察の意見」と言った。



 
 情報ってのは取りようなんだとつくづく感じた。

 情報に対する「第一印象」に囚われてはいけない。

 情報が「耳」にはいらない。

 でも、耳に入らないという「情報不足」と「情報の処理」は別問題。

 別問題だが密接に関連している。

 

 「情報不足」つまり「知らない」ってことは

 「処理」に大きな影響を与える場合がある。



 「知らなかった情報」が事実か否か。

 「新情報」を驚愕の新事実と感じたとしても
 
  その検証を忘れてはいけない。

  その検証をすることが「情報処理」の材料となり

  事実に近づく。

  このブログを書いて「情報の量」が多くて困ったことはない。
  自分の判断で繋ぎ合わせや取捨選択が自分でできるから。

  また、その判断の是非の確認も可能だ。

  「裏が取れる」ってことです。
 

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